しずかな列車
走行音と空調の音がする
誰もが運ばれていく
やわらかな荷物になって
一人分の形に収まる
にんげんのフリをしているので
ここは居心地がよい
同じような表情をして
立つか座るか
ぼんやり窓を眺めて
手元のスマホに目をやる
難しいことをしなくても
ICカードをタッチしておけば
とがめる人もない
いつだって 人混みの中
正解を探していた
いつかの満点は
明日の赤点で
吐き気を抱えて歩く
少しの誤答が降り積もって
数え切れない
人の数だけ答えがある
そのことに目眩を起こして
か細い息は酸素を受け止め切れずに
運ばれていく間は
誰も彼も
何も問わない
空調が連れてくる外気に
深呼吸する
そんな日々があったことを
思い出すとき
あんなに傷つく彼女が
まだわたしに生きている
列車はたんたんと
目的地へと近づいていく
彼女はそっと目を閉じる
散文を載せようと思い立った八月のわたしは何を思っていたのだろうと思いながら、年末、パソコンに向かっています。サイトに不定期ながら日記も載せているので、どう区別しようかしら、と迷いが出てきました。
さて、近況報告のような文を書くことにします。詩人のわたし、詩と仕事以外のことをする生活者のわたし、労働者のわたし、はスペクトラムで、はっきり区切れるものではないですが、近頃は労働者のわたしばかり使っている気がします。入社年数的にも年齢的にも、変化する頃にあたるようで、振り分けられる仕事の種類や量が変わってきました。それで、通勤・帰宅時間も、帰宅してからもぼうっとしがち、なかなか詩人のわたしが頭を出しません。ふっとフレーズが浮かぶ瞬間が減りました……。
詩を書こうと思っても書き出しが浮かばない、書き出しがなければ書きようがない、無理やり作ったら「無理やり作りました!」と表れてしまう始末です。詩を書くノートとは別に、自動筆記みたいに連想で何も考えずに書き連ねていくノートを作っているのに、それすらなかなか書けない日も多くあります。それどころか、詩集を読む頻度も落ちていて、読まないから刺激を得られずに書けないという悪循環に入っているのかもしれません。
とはいえ、詩を生活の中心に据えているわけではなく、詩が書けないから鬱屈するというほどでもなく、詩は生活の彩りだと感じます。わたしにとって生活はドーナツ型というか、中心は空洞で、周りに仕事、食事、家事、友人、詩などなどが並んでいるイメージです。
だから、何が何でも詩を書かねばと思い詰めないで、書けるときは書く、読みたいときに読む、でよいかなと思います。そのうちに悪循環から少しずつ外れていくだろうと信じているし、常に詩を追い求められないときもあると思っていて、今は少し詩との距離が開く時期なのかなぁと感じています。それでも詩集は出したいので、まだまだしばらくは詩人です。