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脈絡のない読書、わたしの言葉、大根を煮る

気の向くままに本を読んでいる。脈絡がない。今日は『荷を引く獣たち――動物の解放と障害者の解放』を昨日に引き続き少し読み、須賀敦子のエッセイ集『霧のむこうに住みたい』を読み終え、先週の通勤中にkindleで読んでいた島本理生『夏の裁断』も読み終えた。

それで明日からの通勤読書はどうしようかなと思って、いったん読むのを止めていた『言葉をおぼえるしくみ』に戻ろうと考えている。セールになっていたので思わず買って今月頭から読んでいたものの、認知心理学の実験結果とその解説が続くので、朝から頭を使って疲れてしまったのだった。だから、明日読んでみてやはり違うな、と思ったら、休日に読むほうがいいのだと思う。

しかし、他に適切な本がkindleに入っていたかな…と思って、いっそ池澤夏樹編集の日本文学全集の中にある須賀敦子の巻を買ってもいいかもしれないと思えば、いかにして本代を削減するかを考えなさいともう一人の自分が言う。

 

唐突に、言葉について雑感が浮かんだ。わたしは大学進学に伴い関西に来て10年以上たつけれど、なめらかに関西弁が話せない。就職してしばらく過ぎた後でも「関西弁を話さないね」と言われたことがあるし、「どこの人かわからない話し方をする」と言われたこともある。

どこの人かわからない。その表現はとてもわかる。

わたしは転勤族の子どもだったので、西日本を転々として育った。長崎出身の親は標準語を意識していたようだけれど、随所に長崎弁が現れて、そこをベースに住んだ地域の方言を覚えては忘れた。今もまだ親戚が長崎にいるから長崎弁はかろうじてわかるけれど、ペラペラに話せるかというともうわからない。親と話すときには単語が現れることがある。子どもの頃あれほど話していた各地の方言はもう全く話せないけれど、完全に忘れたわけではなく、うっすらイントネーションなどに残っているのかもしれない。

おまけに書き言葉を話してしまったり、祖父母になついていたからかたまに古い語彙を使ったり、何かを例えようとするときに独特な言葉遣いをしたりする。この話し方というものが、わたしの生き方を少しは表しているのだろうか。あるいは、詩を書く中でわたしの持ち味になっているのだろうか。そうだったらいいな。

少し話は逸れ、詩人だけれど散文がそっけないというかポエジーに欠けるというか、もう少しエモーショナルでもいいのではないか、と思うときもある。とはいえ、好きなエッセイはエモーショナルというよりは静かに沁み入る感じなので、そっけなさを進化させて静かな言葉にするのがいいのかもしれない。これは散漫な思考なので、この辺で切り上げる。

 

大根を煮ながらこの文章を書いている。まずは下茹でを済ます。本当は米のとぎ汁で茹でる方がふっくらすると思いながら、無洗米を使っているものだから、普通の水で茹でる。そのあとで、鍋を傾けてお湯を切って、もう一度水を注いでだし昆布を入れ、火にかける。煮立ったら昆布を抜いて、砂糖・醤油・みりん・料理酒を適量入れて、豚バラ肉もいれ、煮立ったらあくを取って、煮込む。砂糖+みりん=醤油というくらいの分量がいいと思っているけれど、正確に測っていないので、感覚的なことなのだった。おでんに入っているような、淡く透き通った茶色い大根にはならないはずだ。